【警察官退職したあとの人生どう?】松本稜也(ぽり)の人生振り返ってみる
自分の今までの人生を振り返ってみました!
松本稜也(ぽり)がどう生きてきたのか、赤裸々に書いているので見てってくれたら嬉しいです!
ちなみに、ヒトデさんのVoicyで「自分史」を書いてみようかとなりましたよん。
【幼少期編】手がかからない子ども



1992年2月、北海道亀田郡七飯町(函館市の隣町)という、田舎に産まれました。
(りんごを推してるけど、全然全国的には有名ではないっ)
親戚の9割は漁師で、ザ田舎の子ども。
興味ないことがとにかく苦痛だった
幼いころの自分は、母いわく「手がかからない子」だったらしい。
ただそれは、穏やかというより、興味がないことを嫌がっていた気がする。
粘土や絵がとにかく苦痛だった。できないからじゃない。単純に興味がない。
しかも粘土は手が汚れる。ベッタベタするでしょ!?手が・・・
そして、冷たい水道で洗うのが嫌で嫌で仕方なかった。
寒さが苦手で、外遊びより暖かさを選んだ
北海道の冬は、外がマイナスになる。

友達が外で遊んでいても、自分は友達の家のストーブの前にいた。
友達は外でそりに乗りながら遊んでたけど、自分はずーっとストーブの前にいる。
だって寒いし・・・
マイナス5度とか、鼻が冷えて足先冷えて、指先冷えて、無理中の無理!
遊びたい気持ちより、「寒いのが嫌」が勝つ。
自分はいつも、心地よさを優先していた気がする。
団地育ちで貧乏


家は道営住宅で、いわゆる団地育ち。裕福ではなかった。ってか貧乏。
(ちなみに道営住宅は2021年頃に取り壊されて、育った実家はもうない。ぴえん。)
周りの友人はゲーム機とカセットをどんどん買っていたけど、自分はそうはいかなかった。
ゲーム機はお年玉で買えても、カセットを増やすにはお金がいる。
家は金がなさそうだし「欲しい」と言えなかった。(子どもながらにわかる)
だから友達の家でゲームをやったり、どちらかというと見る側でいることが多かったかな。
【小学生編】あまのじゃくが芽を出した野球少年

陸上部に入ったけどまったく楽しくなかった
小学校3年生のとき、学校の陸上部に入った。
(周りの友達がみんな陸上部に入ったから)
でも自分はそこまで速くなくて、1500mも順位は中くらい。
正直、全然楽しくなかった。
なぜ楽しくなかったかというと、成果出ないことやっても楽しくないから!
リレーもAチーム、Bチーム、Cチームってあって、
- Aが1番速い
- Bは中くらい
- Cは遅い
自分はB。
当たり前にいつもAが優勝してて、Bは大会出てもまぁ6位くらい?
どうあがいても成果出ないから、楽しくないな〜って思い始めていた。
父の影響で野球にハマり始めた

小3,4のころ、父の影響で野球に興味を持ち始めた。
当時の野球中継で、19時から巨人戦やってたんですよね。
(夜中の番組を録画してたのに、延長で時間ずれちゃうやつね笑)
- 3番高橋由伸
- 4番松井
- 5番清原
この巨人の黄金時代ね。
毎日見るから、まぁ興味が出ますわね。
それで、同じグラウンドで陸上部と野球部が練習してて、「野球部楽しそう!」
って走りながらいつも見てた記憶がある。
陸上部を半年そこそこで辞めて、野球部に入ってた。
このときから
- 気になったものはやってみる
- 今やってるものをすぐ捨てて、興味あるものに飛び込む
という習性だったんだろう。
野球に入ってから、小学5年生でショートで9番。小学6年生でキャッチャーで1番だった。


学校でつくったであろう目標が「野球」「母の手伝い」「国語の勉強」
「みんなと同じが嫌」=自分で選びたい
当時はみんながイチローに夢中で、グローブもバットもイチローモデル。
でも自分は「みんなと同じ」があまり好きじゃなかった。
というかたしかにすごいけど、「そんなにイチローみんな好きになる!?他にもすごい選手たくさんいるじゃん!」みたいな。
いや、イチローはすごすぎるんだけども・・・笑
だから広島にいた金本知憲(かねもとともあき)が好きで、金本モデルを探しに行った。
結局、金本モデルがなくてイチローモデルを買った。(結局イチローモデル笑)
たぶんこの頃から「自分で選びたい」が強かったんだと思う。
幼馴染Jくんと、ずっと一緒にいた

Jくんという幼馴染がいて、その子にずっとくっついていた記憶がある。
Jくんは足がめちゃくちゃ速くて、遊びも発想豊かで、毎日いろんなルールを作って遊んでいた。
「この人すてきだな」と思った相手に、ずっとくっついていく。
その“くっつき方”は、たぶんこの頃から変わっていない。
プロレスにハマったのもやっぱり天邪鬼(あまのじゃく)だった

友達の家でプロレスゲームをやったのがきっかけで、プロレスにどハマりした。
小学5年から中3くらいまで続いたと思う。
当時はK-1が流行っていたけど、自分は「プロレスが好きなんだ!」って貫いた。
みんながK-1だから、自分はプロレス。ここにも天邪鬼が出ている。
プロレス会場で、プロレスラーの小さいストラップとかつけるの好きだったなぁ。
筆箱につけすぎて、先生から唯一注意されたことだったかもしれん。
姉の反抗期を見て「平穏主義」が育った

姉の反抗期は激しかった。本当激しかった!!笑
もちろん、今では普通に連絡取り合うし、一緒に出かけたりもする。
仲悪いとかまったくない。
具体的なエピソード1つ目:長崎屋事件

父親、母親、姉、私の4人で地元の長崎屋に行った(長崎屋、懐かしい!)
長崎屋で姉がはぐれたとき、親が放送で姉を呼んだ。
呼ばれた姉が「恥ずかしいだろ!友達に聞かれたらどうするんだよ!ふざけんな!!」とガチギレしてどこかへ行った。
「ひょえぇ〜、姉怖いなぁ〜」
って思うと同時に、「母親かわいそう」って思ってしまった。
いやいや、姉理不尽すぎにもほどがあるでしょ!って笑
当時、姉は中1くらい、自分は小2くらい、かな?
具体的なエピソード2つ目:固定電話事件
母が何時かに電話をかける予定があったんだと思う。
姉が固定電話を3時間くらい占領してるのよ。
母が「もう電話終わって〜」って言ったら「ふざけんなよ!」キレ散らかしていた笑・
その光景を見て、自分は「こうなりたくない!!」と率直に思ったなぁ。
「なんでそんなに怒るんだろう?」と、反抗期の気持ちがわからなかった。
だから、自分には反抗期が一切なかったのかもしれない。
もし子どもができて反抗期あったら、子どもの気持ちが理解できないであろうと思っている。
父がいなくなり、母が必死に働いた
小学校時代は、父が単身赴任で、小3,4から現在まで会っていない。
というか、すでに夫婦仲が悪かったんだろね笑
小4くらいのときに、父が長くいなくなると聞いたときは、寂しくて泣きそうになったのを今でも覚えてる。
でも数年経つと、父がいないことが普通になった。
おそらく父が借金をしてて、家計が火の車だったんだろうと。
母は
- 朝3時に新聞配達で家を出て
- 朝ごはん作るために家に帰ってきて
- 8時半から18時、遅い日だと20時まで働いて
帰ってくる生活だった。
ラーメン屋に行っても・・・
家族で外食しても、値段が高いものは頼まなかった。
たま〜にラーメン屋行くわけですよ。
老夫婦がやってる、小汚い小さいラーメン屋に。

2002年にこの店舗から別の場所へ移転 その後閉店してもう食べられない
やっぱり子どもの頃って肉とか好きじゃないですか?
だから自分は味噌チャーシュー麺を食べたかったけど、当時でも1,000円近くするわけで。
金銭的に親が大変だろうと思って、味噌チャーシュー麺より安い、普通の味噌ラーメン頼んでた。
200円でも300円でも安いものを頼もうと、子どもながらに思っていた。
ダウンタウンのまっちゃんが作詞した、「チキンライス」の以下の歌詞がわかりみすぎる!!
子供の頃ために家族で外食
いつも頼んでいたのはチキンライス
豪華なもの頼めば二度とつれてきては
もらえないような気がして
れっきとした片親育ちでござんす。
これらの経験で、小さい頃から
「お金には苦労したくないなぁ。」
「稼げるのが1番いいけど、お金は稼げなくても、なるべく生活費を抑えて生活しよう」と今にも思っているのだろう。
母からは自由に育ててもらった

学校からの依頼かなにかだったんかな?
母からは本当に自由にさせてもらった。
「勉強しなさい!」
「習い事しなさい!」
「◯◯はしちゃだめ!」
とか、なにか指図されたり、強制させられた記憶が1回もない。
陸上部も、野球少年団に入りたかったのも全部自分からだった。
自分からやりたい!って言ったことは全部やらせてくれた。
友達が、「グアム行ってきたんだ〜!」って毎年のように言ってて。
海外旅行に1回くらいは行きたいとは思ったけど、さすがにそれは言えなかった笑
(お金かかるからね)
それを除けば、本当全部自由にやらせてくれて、強制されることもなく、のびのびと育ちましたとさ。
学校では誰とでも仲良くなるタイプ
姉がいる弟の特性なのか、女友達が多かった。
(父がいなく、母と姉がいるところで育ったからかな。母は、上に姉がいて下に妹がいる、三姉妹)
幼稚園生のときは、周りの男友達は仮面ライダーごっこをやってたけど、自分は女友達とおままごとやってた。
小学生でも受け継がれてたのか、小学校低学年のときは女友達と遊んでたイメージ。
母親が、私がいっつも女友達と遊んでたから、この子大丈夫なのかな?って心配してた気がする笑
高学年になるにつれて、男友達とも遊ぶようになった。
交換日記が流行ってて、女友達2人と交換日記をやっていた記憶もあり。
多分性別関係なく、居心地がいいな〜って人と一緒にいたいっていう傾向にあるのだろう。
仲間外れにされてる子にこそ普通に接した
今でも覚えていることがある。
とある男の子が、仲間はずれというか、結構クラスでも浮いていた。
それでも自分は、仲間はずれにすることもなく、普通に他の友達と同じように接していた。
- その子がかわいそうだからなのか
- 自分が仲間外れにするような態度がいやだったのか
それはわからん。
その場の空気を大事にしていたのであろう。
マイブームは「深夜番組」「ラジオのオールナイトニッポン」
#今日は何の日
— たまお (@cherrytamax) September 25, 2025
【2005年9月26日(月)】
「内村プロデュース」最終回
「内P卒業式をプロデュース」と題して、真の内P王者の座を賭けた。
ふかわが30,000ポイント獲得し総合王者となった。
最後は「NO PLANの人生という名の列車」に乗せて過去の名場面を振り返り、5年半の歴史に幕。 pic.twitter.com/d6z8y2XhCY
小学生のときのマイブームは、「深夜番組」「ラジオのオールナイトニッポン」でした。
テレ朝系列の23:15からの深夜番組が最高だったんですよね。
- 内村プロデュース(内P)
- ぷっすま
- Qさま
- アメトーーク
- 銭形金太郎(銭金)
居間にしかブラウン管のテレビが置いてなかったので、静まり返った夜に、
「くっくっくっくっ」
って大声で笑いたいけど、笑えないっていうあの時間がたまらなく好きだったんですよね。
ラジオも、普段テレビでよく見る芸人さんが裏話をしてくれるんですよね。
この特別感が好き。
だから当時は
「1時に目覚ましをかけて1〜3時までラジオを聞く、または寝落ちする」
という、小学生ではなかなかの不規則な生活を送っていました。
【中学生編】飽きる→ハマる→結果が出る

野球部でレギュラー、そしてキャプテンになった
野球部に入部して、中2ではセンター1番でレギュラーだった。
中2でレギュラーだったのは自分ともう1人だけで、運動神経はそこそこ良かったんだと思う。
中3ではキャプテンもやった。
キャプテン向きのピッチャーがいたけど、ピッチャーは負担が大きいから、キャッチャーの自分がキャプテンを任された。
理由は「実力」と「役割」だったかなと思う。
野球は決定打なく、じわじわ飽きていった
中3の中体連が終わったころには、野球に飽きていた。
決定打があったわけじゃないなくて、小4から6年間やったから、徐々に冷めていった。
今思えば6年もやってたんだって、驚き!
だから中3は、陸上部の練習に出てから野球の練習に出る日もあった。
陸上は「勝てた」がスイッチになって一気に伸びた

陸上で結果が出たのは、小学校高学年から足が速くなり始めていて、学校の中ではまぁ速い方ではあった。
校内陸上ってのがあったんだけど、リレーではクラスのアンカーをやったりもした。
そんなことで、陸上の先生から「大会出てみないか?」というお誘いが。
(田舎あるあるだよね〜!)
そこで地区の大会出たら、たしか800mで予選を勝ち準決勝に行き、あれよあれよと決勝に行った。
次は北海道の大会で、そこでも決勝まで行き、最終的に4位くらいだったと思う。
初めて出た大会で。
その後も、なんの大会か忘れたけど800mで北海道で1位になって、全国大会に出た。
幼馴染のJくんと一緒に。
大会で勝てたことが成功体験になったからだと思う。
興味があることに出会うと、自分は練習するし、調べるし、時間を忘れる。
それで一気に上達していった。
駅伝で全国大会に出れた

駅伝で北海道1位になり、全国大会に出れた。
ただ、全国大会が開催された山口県のホテルでノロウイルスにかかり、上からも下からも出る状態に。笑
点滴とか打って結局は出れたんだけど最下位。
このような経験もありながら、札幌の高校2校と、函館の高校1校が、陸上部に入らないかと声をかけてくれた。
特待生になって、家計の現実をはっきり見た
陸上で結果を出し、高校は部活の特待生(特待B)になった。
入学金免除、授業料半額。家にお金がない中で、かなり大きかったと思う。
母が「利子がつかない奨学金を借りたい」と動いてくれたことも覚えている。
成績の条件で難しく、利子がつくなら貸せると言われて諦めた。
(いやぁ、今思っても母には申し訳ない)

とあるコミュニティで、たまたま20年振りにお会いした!


内申点はいいけど、勉強の点数が低くて書類の審査が通らなかったと記憶してる。
たぶん祖母に頼ったりしたんだろう。
母には今でも感謝している。一生頭が上がらん。
中学生の終わりころから警察官を目指し始める

このときから、警察官を目指し始めていた。(らしい)
理由は、制服かっこいいからとか、パトカーかっこいいとか、そんな理由からだったと思う笑
【高校生編】陸上に打ち込んだ高校生活

男子校に入った

地元で陸上強いところが男子校だったから、迷わず男子校に入った。
まぁむさくるしいこと笑
もちろん先生も男性が多く、女性がいても50代後半くらいのお姉さま。
生活指導の先生とか死ぬほど怖く、全校集会のあとは必ず頭髪検査があったようなところ。
柔道大会とかあるし、ごりごりの男子校に入学。
通学12.5km「休まない」のは根性じゃなく習慣
家から高校までは12.5km。冬は雪が降るから無理だけど、冬以外は通学していた。
そして高校3年間、1日も休まず学校に行った。
「休まないことで何かを守ってた」とか、そういうドラマがあったわけじゃない。
ただただ、習慣だった。
高校生の仕事は勉強。学校に行くのは必要なこと。
それを淡々とやっていただけ、という感覚が近い。
だから、何事も習慣化させちゃえば、自分はコツコツと少しずつでもやれるんだろうなっていう。
陸上一筋になれたのは「成果」と「人」に恵まれたから

高校では陸上一筋だった。
楽しかったし、先輩・後輩とも上手くやってた。っていうか、ただただ先輩が良い人ばかり!
当時は、練習したら練習した分だけ成果が出た。
全国大会に出るのが目標で、それを達成できた時は最高!
結局、人なんだと思います。
場の雰囲気が良いとパフォーマンスが上がる。練習に行きたくなるし、練習していても楽しい。
逆に怒鳴られる環境だったら、たぶん毎日が憂鬱だった。
「部活行くの嫌だな」「先輩に会いたくないな」ってなって、練習そのものが嫌になっていたと思う。
北海道大会で全国大会出場を決めた!

全国大会につながる、予選か準決勝で敗退した先輩が、走る直前まで一緒にいてくれた。
そして高校2年のとき、1500mで初めて3分台が出た。(北海道大会で3分59秒98)
今でも覚えている。
「3分台出たよ!」って友人が教えてくれて、いちばん嬉しかったなぁ。
家に帰って母には「全国大会決まったよ」みたいなことを言った気がする。
いや、母は会場に見に来てた気がする・・・
ぐちゃぐちゃ段ボールのスパイクで3分台が出た

中学生のとき、学校の奥底に眠っていた段ボールがあった。
その中には、ぐちゃぐちゃにスパイクが何足も入っていた。
先生が、「こっから一足持っていけ!」と言われたので、1足もらった。
初めてのスパイクだったから、履いた瞬間は「まあこんなもんか」くらいの感覚。
でも結果として、そのスパイクで3分台が出た。
感情としていちばん強かったのは、「これでもいけるんだ!」っていう驚き。
全国大会に出たら、高校から無料で最新のスパイクがもらえるんですよね。
そこで最新のMizunoを履いたら、率直にこう思った。
「かる〜!履きやすっ!」ってなったわい。
それで、全国大会に出て3分56秒が出た。予選敗退だったけど・・・笑
けど、ここである程度のクオリティのものを使えば、普段以上の自分の成果を出せるようにしてくれるんかなっていう学びを得た。
「死ぬほどきつい」のに続けられた理由

大会は全力疾走だから、走るたびに死ぬほどきつい。
本当、走ったあとは、一生走りたくないって思うわけだし笑
でも続けられたのは、やればやるだけ成果が出たから。
それに、いまさら辞めるなんてありえない。そんな気持ちもあった。
一緒に頑張る仲間がいたのも大きい。
そして現実的な理由で、辞めたら特待生が終わってしまう(だから辞められない!!)
だから、分析としては
- 目標を達成させるために一緒に頑張れる仲間がいて(陸上部の仲間)
- 自分は窮地に追い込まれて(辞めたら特待じゃなくなる)
- ある程度生まれ持った才能を活かせる(走るのがたまたま速かった)
という状況だったら、成果が出るんかなって思った。仕事の面とかでもね。
だから、例えばこれから個人事業主で成果を出していくために、以下のことをやっていこうかな。
走るのは楽しい。リレーで勝つのはもっと楽しい

函館のあたりでは800mも1500mも1位。北海道でも5位以内に入れた。
成果が出ると、やっぱり楽しい。
個人で成果を出すのも楽しかった。
でもそれ以上に印象深いのは、1600mリレー。(4×400m)
チームで北海道1位を取ったときは、やっぱり別の楽しさがあった。
だから、親密な人たちと、何か1つのことを成し遂げるというのは昔から好きだった傾向なんだなと。
12km走と砂浜ダッシュが刺さったのは「非日常」だったから
部活でたま〜に「1日12km走る」練習があった。函館市の景色の中を走る。
それが楽しかったのよなぁ〜。
景色が変わると気分が変わる。
函館を走っていると、「あれ、こんな西洋風な建物があったんだ」みたいな発見もある。


年に1回の砂浜ダッシュも好きだった。
特別な練習をしている感じがあるし、何より景色が最高だった。
海を見ながら練習する。
「こんな贅沢ある!?」みたいな。
たぶん自分は、常に非日常感を追い求めてるんだろうなぁ。
高校の頃から、もうその傾向が出ていたのかもしれない。
大学のお誘いをお断り
大学から声がかかった時、純粋に嬉しかった。
でも気持ちはぷっつり切れていた。
理由はシンプルで、
- 走るのが嫌
- またきつい思いをしたくない
- それが4年間も続くのは無理
ってなった。
教科は現代文と政治・経済が好き

好きな教科は政治・経済。あとは国語の現代文・小説の文章問題が好き。
特に政治・経済は楽しかったし、興味が持てる分野だった。
国の仕組みとか、経済がどう回ってるかとか。
センター試験でも政経だけ80点取れた。
現代文は、文章題は解けるんだけど、ことわざと漢字が致命的。
他はクソだったけど、政経と現代文は唯一の手応えだった。
特別進学コースクラス 9人の平和
特進クラスに入ったけど、内申点だけで入ったようなもの。
そしてクラスの人数はまさかの9人。3年間ずっと9人。笑
人数が少ないから、いじめとかは起きない。
9人は9人で、平和に過ごせていた。
居心地が良かった理由はこれ。
ちなみに幼馴染のJくんも、ずっと同じクラスだった。
勉強は「やったけどできない」で、諦めに近い感覚

勉強は一生懸命やった。数学とか。
でも、できないものはできない。数学一生やってたけど、一生解けない笑
数ⅡBとか一生わからんかった。
サインコサインタンジェントとか、何回聞いても解いてもわからんから、マジで諦めたもん。
受験はしたけどもちろん結果が散々で。
最終的には夜間の大学に行ったけど、それは大学編で。
母の弁当は当時「当たり前」だった
高校で一回も休まなかった記憶の裏で、母は弁当を作ってくれていた。
自分の記憶では、母が弁当を作れなかったのは3年間でたったの2回。
当時はそれが当たり前だと思っていた。
でも大人になってから分かった。これは当たり前じゃない。
今なら言える。
母は、すんげぇ。
学生時代の恋愛
ちなみに、学生時代に恋愛という恋愛はまったくしてこなかった!
小6のときに好きな子ができて、いい感じに喋ったりもしたけど、それ以上のことも特になく・・・
その子のことを小6から高3まで好きだった。(片想い7年間!)
高3のときに告白して玉砕(今となってはいい想い出)
そのときに思ったのが、長く片想いしてたところで無駄だなと!
好きって思ったら、すぐいくんや!
付き合えてからが、本当に始まりなんだ!と悟ったとさ。
部活とかはすぐ飽きるけど、恋愛は一途ですな。(どうでもいい)
【大学生編】アルバイトとフィリピン留学挑戦

夜間大学に入学
大学に関しては、先輩でいうと大泉洋がいるTEAM NACS(チームナックス)メンバーが唯一の誇り。
私は夜間の方に通ってた。
夜間は結構誰でも入れるから、偏差値40くらい?多分。
日中の時間帯は偏差値50くらいある?
入る前はいやだったけど、入ってからは最高!ってなった。
私にとっての最高は、母に金銭的負担をかけることをいかに最小限に近づけるかってこと。
今も、いかに安く美味しいものを見つけるかが結構幸せ。
- 高くて美味しい→まぁ当たり前っしょ
- 高くてまずい→うわぁ〜、ランチで5,000円も払ったのにこんなもんか、残念。
- 安くて美味しい→最高!(サイゼリア神! 老夫婦が営む町中華も神!)
- 安くてまずい→まぁまぁ、安いししゃーないか
初めての1人暮らし

実家が函館の方で、大学が札幌にあるから1人暮らしを始める。
たまに本州の方から、
「そっか、実家が函館で大学が札幌なら、通学してたの〜?」って聞かれる。
いやいや、函館から札幌は距離的に250キロよ!?

車で4時間半くらいはかかる。
東京からだと、名古屋に通勤するみたいな。
無理中の無理!
1人暮らしして思ったのは、「なんでも1人でやるのは大変」ってこと。
- 掃除・洗濯
- 電気料金等の支払い
- 料理
このときに、母親って2人子どもを育てて、父の負の遺産の処理とかして、飯も作って人としてすっげえ〜なぁ〜って尊敬した。
初めてのアルバイト飲食店 しんどい!
大学1年生の6月頃、友達もぼちぼちできて大学生活も慣れてきたな〜というときに
「暇だなぁ〜」って思い始めた。
ってなことで、アルバイトしよう!ってなった。
そこで、時給800円の当時の北海道では高めの飲食店バイトの求人を見つけて応募。
ありがたいことに、働かせてもらうことになるんだけど、まぁ苦痛!笑
昼間のバイトだったので、主にランチを担当。
夏休みのときは、夜は焼肉屋さんだったので夜もシフトに入った。
ただマジで地獄。
とくに、焼肉屋さんってお客さんにこの肉はこれですよって説明しないといけないんだけど、全然覚えられない。
牛タンとか鶏肉は見極めつくけど、他は全部一緒に見える・・・笑

「早く覚えろよ!」って店長に怒られるけど、3ヶ月経っても全然覚えられない。
ってことで「あっ、自分接客は無理。焼き肉も覚えられない」。
もうそうなると、バイト行く前が憂鬱すぎて半年で辞めたとさ。
だから、未だに接客業の方々は心から尊敬する!
コンビニとかレジやるの絶対無理って思うし、牛丼屋のチェーン店とかも絶対無理。
接客やってレジもやって、ご飯提供するのもテキパキしないといけないし。
2つ目の物流のバイト「楽しい!」

2つ目は、物流のバイトをした。
内容的には
- 百貨店内で待機
- トラックから運び込まれてくる荷物を受領
- 荷物を各店舗に運ぶ(主に服)
ってな仕事だった。
結論、3年くらいここで働いた。
何が楽しかったのかと言うと
という。
たま〜に、物流の人たちと、アパレル店員の方々と一緒に飲んだりするのが楽しいわけですよ!
いまだに覚えているのが、20歳のときにみんなでカラオケに行ったとき。
当時私が20歳くらいで、30歳くらいのお姉様がJUDY&MARYの「motto」をはしゃいで歌ってて
「ほえぇぇぇ!大人ってこんなにはしゃぐんだ!」
って衝撃を受けた。

だって、学校の先生とか真面目な顔してはしゃいだりしないじゃん?
大人って意外と子供っぽいのかな〜とか思ったり。
こうやって飲み会に行くと、お店に荷物を運ぶにいくとお互いに
「あっ、この前の〜!」ってなったりする。
このときから、新しいお客様の対応をするという広く浅くというよりは、すでに顔なじみの人とさらに関係値を高めていくのが良きだったんだなと。
大学生らしくない生活
自分の生活は
- 7:00〜16:00までバイト(週3)
- 7:00〜12:00までバイト(週2〜3)
- 18:00〜21:00まで大学
という生活を送っていた。
理由としては、働かないと自分の生活費がないから。
家賃とか授業料は母が払ってくれてたから、それ以外は自分で稼ぐしかない。
大学生ながら、多いときで18万円とか稼げていた。
だから、サークルっていうものに入っていなかった。
今思えば入っておけばよかった〜と後悔。
(サークルってなんか大学生らしいよね)
ただ、大学生というのは体力が有り余ってて、
- 7:00〜 16:00 バイト
- 18:00〜21:00 大学
- 22:00〜4:00 ボーリング(20ゲーム)
- 5:00〜6:00 仮眠
- 7:00からバイト
みたいなこともしてた。
さすがに今は無理だけど、大学生らしいこともしているなと。
大学3年生でフィリピン留学(6ヶ月)に挑戦

大学3年生になると、就職どうしよっかな〜って思い始める。
中学生の頃から警察官を目指していたから、どうやって警察に合格する?と考え始める。
ただ現状として、アルバイトしかやっていない!(部活とか入れてない)
はい、以上、みたいな。
高校生のときは陸上とかやってた。
けど、大学時代はアルバイトだけやってましたって言っても、面接官は俺を合格させないでしょ!って思った。
そのときに、同じバイト先で同じ大学の年齢4個上くらいの先輩から、オーストラリアでワーホリ行ってた話を聞いていた。
それを思い出し、「よし!英語を学んで英語を喋れるようになりました!」って面接で言おうと。
東京オリンピックを見据えた採用をしているって、風の噂で聞きまして。
それで語学留学について調べると、アメリカ・カナダとかクソ高いわけ。
当時で1ヶ月30万ないと、語学学校に通いもできない。
いやいや、さすがに無理って思ってたときに「フィリピンで英語留学、月に12万円」ってのがあった。
しかも12万円で、
- 授業料
- ご飯代
- 部屋代
とか全部揃ってるっていうわけよ。
「これ行くしかなくない?」
ってことで、半年フィリピンへ留学することに。

しかも、半年だけ休学しようと思って大学の庶務に聞いたら、「休学は1年じゃないとできません」って言われて・・・
さすがに1年休学して、1年遅れて卒業するのはいやだ。
ってなことで、3年生の後期を使って行った。
もちろん単位は取れない。
けど、1,2年生と3年生の前期で、ほぼほぼ全部の単位を取ってた。
あと5個くらい授業取れば、まぁ卒業できるんじゃないか?くらいにはなってたはず。
だから、フィリピン留学しよう!ってなったはず。
ここで思うのは、一応卒業できそうだから、まぁ3年の後期は1回も授業出なくても大丈夫かという算段が自分にはあったんだろうな。
フィリピン留学でガチで人生変わる

「海外行ったら人生変わるよ?」
みたいな、海外行った人のちょっとしたマウント、あるじゃないですか?
あれ好きじゃないけど「フィリピン行ったら人生変わるよ?」
3年生の後期で、しかも初海外でフィリピンの英語留学に6ヶ月も行くというんだからなかなかの挑戦。
結論、行ってよかった。
良かったところをざっと述べる。
他にもあげたらきりがないけど、
- 日本に生まれるってことは結構幸せなこと
- 生きていられるだけで幸せ
っていうのを、心の底から噛み締めた期間だった。
フィリピンの魅力に酔いしれる

フィリピンは発展途上国だし、日本と比べたらインフラとか全然だし、不便に思うことがめちゃくある。
ただ、それを含めてもフィリピンって良いところだな〜って思う。
良いところをあげてみた
※ちなみに、これを書いている今2026年1月は、フィリピン滞在中。5ヶ月滞在予定。
以下のYouTube動画も、フィリピンで撮った。
このときに、日本人の色々な大人の方を見たわけですよ。
当時は今みたいにYouTuberとかいなかったから、
「生き方ってなんでもいいんだ」
って肌で感じられた。
こんな経験を大学生でして、本当に心から良かったな〜と!
ランドリースタッフを見下す

ランドリースタッフが語学学校にいてくれるわけですよ。
ランドリースタッフは、
- 生徒の服を洗濯、干す、畳むまでやってくれる
- 生徒の部屋を掃除してくれる
ってなことをやってくれます。
生徒としては、「英語を勉強するだけの環境」にしてくれるってわけですよ。
こんなの、めっちゃありがたいじゃないですか?
ですが、たま〜に、他の人の洗濯物が混じってたりする。
ってことは、他の人は洗濯物がなくなってるわけですよね。
まぁそんな1着10万円みたいなのは着てないわけで、1着なくなってもまぁしゃーないかみたいに自分は思っていた。
ただ、激怒率で言うと、韓国の方々が多かった笑
日本人で、怒るというか呆れている人はいたけど。
そんなことがあってかわからんけど、特に韓国の方々が、ランドリースタッフを人として接してない態度をする方がいた。
全体の3割くらいに思えた。
そんときに、自分としては心が「きゅーっ」って傷んだ。
こんなに私たちの洗濯物とか部屋の掃除してくれてるのに、そんな扱いされるなんてさって。
だから自分は、毎回ありがとうって言ってたし、コーヒー好きなスタッフには毎回コーヒーのおすそわけをしていた。
そうしたら、こんなのを作ってくれたわけ!
めっちゃ嬉しくて。

この経験を経て、
- 生まれた国で差別するとか
- 仕事で差別するとか
- 感謝の気持ちは絶対忘れないようにしよう
って思った。
ここで、韓国の方々を悪く言うような結果になっちゃったけど、仕方ない部分もあるのかなと思う。
実際に韓国の方々に話を聞いたら、
- 日本より完全な学歴社会
- 大企業に勤めるのがステータス(日本よりも)
なわけですよ。
たしかにランドリースタッフは、大学出ずに高卒で働いてたりする。
給料は予想以上に低いし、大企業ではない。
でも、自分たちの身の回りのことをやってもらってるんだから、自分は感謝を続けようって思った。
まぁ変な態度を取るのは一部分の人ですけどね。
大学4年生のときに警視庁に受かる
フィリピンから帰ってきたら、みんな就活してて忙しそうだった。
「あ、そっか、自分も就活するんか」と他人事。
周りは公務員志望が多くて、みんなすでに勉強を始めていた。
自分も前から警察官を目指してたから、独学で勉強を始める。
(ただ単に、大学の公務員講座は締め切られてて、じゃぁ独学するしかないかっていう感じだったと思う)
北海道警察を2回受験するも、1次は受かるけど2次は落ちる。
「えぇ〜、全然警察官なれないじゃん」と思ってた矢先、たまたま警視庁のホームページを見たら、募集されていた!
(しかも1週間くらいしか募集してないのに、たまたまた見つけた!)

それで1次、2次の面接や体力試験を受けて、まさかの合格!!
ちなみに、フィリピンに行ってる半年だけ物流を辞めたけど、また戻りたいって言ったら戻してくれた!
優しい!
警察学校入校まで8ヶ月 ニート期間:22歳

警察学校入校するまで、大学卒業してすぐの4月に入れるわけじゃなくて、次の年の2月頃に入校ってなってた。
あ、じゃぁ8ヶ月くらいニートできるじゃんと思って、その間色々やった。
- フィリピンに2ヶ月、また語学留学した(大学3年生のときと別の学校)
- 長ネギの根っこをひたすら切るバイト(実家の近くの農家)
- 北海道新幹線の開通に伴う線路の掃き掃除(単発)
- 親戚の家の昆布の手伝い(19時就寝2時起床)
とくに、フィリピンにまた行ったことで、「あれ、フィリピンにずっといたいかも」とか思った。


けど、まぁ就職先決まったし、就職するしかないよな!って言い聞かせ、警察学校に無事入校。
これで思ったのは、生きている期間とか、自分が自由に体が動かせる年齢を決めちゃって逆算したら、自分は活発に行動できるんだと気づきを得た。
【社会人編】警察きつくない?って気づいちゃう(2015年23歳)

警察学校に入校
警察学校に2015年の2月に入校するんだけど、これがなかなかしんどい。
警察学校のきつさは、以下の記事でまとめています。

例えば、
そんな感じ。
まぁ警察官という特殊な仕事につくには、仕方ないことかもしれない。
(今はもう少しゆるくなっていてほしい笑 正直、現場の方がきつかったけど。)
人に恵まれた
教場って言って、学校ではクラスみたいなもんなんだけど、その担任(教官)と副担任(助教)がいた。
私がいた教場は、理不尽に怒られることはなく、その点でも本当に人に恵まれているなぁとしみじみ。
私たちの教場は、最初は40人。
最終的に39人くらい卒業した。
他の教場は40人が30人くらいになってたかな?たしか?
教官や助教がきつければ、辞める人は多い。
ただ、まぁここも同期の絆のおかげで、きつい6ヶ月間を乗り越えられた。
この警察学校で培った力は
武道が嫌すぎる
警察学校に入ると、柔道or剣道、逮捕術をやるわけ。
まぁこの武道の時間が本当しんどかったなぁ。
走るのはいいだけど、柔道とか投げられると痛いし。

目をつけられることなく無事卒業
ここで助けられたと思ったのは、なんせ東京の警察は人が多い!
結構田舎の県警とかだと、1年で20人採用とかある。
同期が10人とか。
ただ、東京は採用人数1,000人以上だし、同期も自分の場合は200人近くいた。
他の期だと、300人になる場合もある。
だから、個人的に怒られることはなく、問題行動を起こすこともなく、うまい具合にやれてたんじゃないかなと。
警察学校卒業して現場に出る

6ヶ月の地獄の訓練期間を経て警察学校を卒業したら、現場に出された。
指導Pって言って、まぁOJTみたいな一緒に何から何まで指導してくれる先輩がいるわけですよ。
その方と一緒に活動をすることになった。
初めて交番ついて仕事した日は、「え、これ一生やるの!?」っていうのが正直な感想。
というのも基本は110番対応するんですけど、じゃぁ110番ないときは何をするのかというと、主に
- 職質
- 交通切符
どっちもつらすぎて、初日から辞めたくなった。笑
独身寮に入る
独身の人は、全員寮に住まなければならない。
簡単に言うと、その警察署に配属された5年以内の若手警察官で独身の人が居住する。
独身寮は個人的にはなかなかいやで・・・
門限あったのがきつくて、20代前半って遊び盛りじゃない?
でも門限までに帰らないといけないから、合コンしたときも女性陣から
「え?もう帰るってうそでしょ!?今日オールじゃないの?」
って言われたこともあり。
副署長と独身寮メンバーでご飯を食べる
たまに寮のイベントごととして、おえらいさんと一緒に食べないといけない日がありまして・・・
イメージとしてはこんな感じ。

まぁ副署長と一緒に食べないといけないから、
- 遅く食べてもだめだな
- 早く食べすぎてもだめか?
とか色々思いながら、まぁ副署長と同じペースで食べるわけですよ。
それで、「はぁ、だるいなぁ」と思いながらご飯を食べて、副署長から何か聞かれたら答える。
そして解散。
その後、寮のトップの人が
「こういうときは副署長と同じペースで食べるんだよ。◯◯は食うの早すぎ。◯◯は食うの遅すぎ。最後、お前のために1〜2分待ったぞ」
って言ってて。
そんときわいは、こんなこと思った。
「うぉ〜、よかった。周りに合わせておいてよかった〜!」って。
多分、自分は周りの空気を読んだり、大勢の前ではヘマしないように無意識的に気をつけてるんだなと。
出勤前の柔道の練習が嫌すぎて

出勤前の柔道が苦痛オブ苦痛。
ランニングとかは喜んでするけど、本当武道がいやでいやで。
日勤のときは5時半に起きるんだけど、柔道やるのがいやすぎて3時過ぎまで起きてた。
寝て起きたら柔道やらないといけないから。笑
最終的には、朝の柔道に2年半耐えたんだから自分えらい!
柔道で右腕骨折する大怪我で全治6ヶ月
「右上腕部骨幹部骨折」っていう大怪我を、配属されて10日目くらいでやっちまった。
救急車に運ばれて病院まで行きやした・・・
手術後の写真↓




しかも、全然強くない先輩と稽古して骨を折って。
やっぱり好きじゃないことはするもんじゃない。
ありったけの有給を使う
手術したりなんなりで、6ヶ月はぬくぬく生活する。
利き腕の右腕を骨折したもんだから、ご飯を左手で食う生活に。
中華料理屋でチンジャオロースを頼んだ日には、ピーマンと細切りの肉を箸でつかめなく、苦労したな。
あと寝返りうてないのがなかなかの苦行。
交番で約2年勤務する

交番で約2年勤務することになる。
仕事内容はこんな感じ。
- 110番対応(喧嘩口論、交通事故、ご近所トラブル等なんでも)
- 職務質問
- 交通切符
- 巡回連絡
交通切符
交通切符を切るのも苦痛だった。
一時停止とかって、止まったか止まってないかって警察官の主観だったりするし。
もちろんすべて一時停止は止まらないといけないけど、「えぇ〜、この標識わかりにくいよ」ってなところもあるし。
警察って隠れて切符を切ってるし、なんかいいイメージがなかった。
完全に運転手が悪いから。
このときから自分が納得いかないことは、やりたくない傾向にあったんだろう。
自転車泥棒捕まえたけど・・・
職質が本当に嫌いだった。
だって声かけたら9割9分は善良な市民の方々だし。
でも検挙しないといけないから、職務質問を仕方なくする。
たまたま自転車泥棒をしていた人を検挙した。
その自転車って、子どもを載せるような立派なママチャリを、10代後半くらいの若い子が乗ってたわけ。
検挙したらその自転車は、被害届が出ていた。
簡単に言うと、「自転車盗まれたから、犯人見つかったらチャリ返して」っていう届け出。(ちょっと意味違うけど許して)
だから持ち主に返さないといけないんだけど、3年くらい乗られてから自転車ボロボロなわけよ。
上司と当日、この自転車を持ち主に返すんだけど、
- 自転車ボロボロ
- 誰が乗ってたかわからないものを乗りたくない
- 新しい自転車を持っている
ってことで、自転車いらないですって持ち主が言うわけよ。
うん、気持ちはめちゃくちゃわかる。
ただ上司は、「あなた被害届出してるんだから、自転車引き取ってもらわないとだめよ」
と言い残し、自転車も置き残す。
自転車を盗まれた被害者の方は、「えぇ〜、マジ最悪なんだけど」という顔をしている。(30代くらいの主婦の方)
このときに、「私は一体なんのために働いているんだろう? 警察組織では検挙して評価されることしたけど、市民の方のためにまったく役に立ってない。むしろ、迷惑かけてる」
って思ってしまった。
そんなときに、自分がやる仕事ってこれでいいのかと疑問に思う。
を大事にしていきたいって強く思った。
機動隊に異動(約2年)

交番で四苦八苦しながら、機動隊に異動した。
機動隊というのは、ざっくりこんな仕事をする。
治安の要とも言われる。
あと、機動隊は完全なる縦社会。
芸人さんの世界と似てて、1日でも早く機動隊に入隊したら、先輩というもの。
だから年齢が4つ下の先輩とか普通にいた。
そもそもなんで機動隊に異動したのか?
機動隊に異動した理由は、大きく2つあって
- 交番に飽きたから
- やりたいことがないから
というもの。
とくに、やりたいことっていうのは、例えば
などがあるんだけど、興味がなかったから笑
だから、機動隊は楽しいよって先輩に言われて、機動隊の異動願を出した。
機動隊に入る前に大型免許を取得した
機動隊に入る前に、自費で大型免許を取得した。

機動隊では、公費(いわば無料で)大型免許を取得できる。
けど、やる気?みたいなのを見せるために自費で取った。
ただ、大型免許を取るとバスを運転しないといけないけど、給料は変わらない。
自分はなかったけど、バスをどこかにぶつけたら、始末書とか書いて色々大変。
もちろん車両整備の係からめちゃくちゃ怒られる。
だから、
- バスを運転しない
- 無線もやらない
- 資格も取らない
という何も挑戦しない人が、怒られずにお給料をもらえる構造で、自分はげんなりした。
え、何もやらない人の方が得じゃん!とか思ってしまった。
新隊員〜半年隊員に人権ない

機動隊に入ってすぐの隊員のことを、新隊員っていうんだけど、一切人権がない笑
例えば、泊まりの日の出勤簿上では、
8:30出勤〜10:00退勤(翌日)
なわけ。だから、拘束時間としては25時間半くらい。
ただ実際の勤務は
5:30〜15:00(拘束時間は約33時間半)
1回の泊まりで、8時間のタダ働きってなんやねんって思ってた。
けど、まぁ周りはそれが普通だから、仕方ないかと。
朝ごはんを発注・配るのも新隊員の仕事
泊まりの日は朝ごはんがない。
近くのすき家とかで先輩の30人分くらいのご飯を発注、新隊員で手分けして、それぞれの先輩に手渡す。
牛丼の日とかは
「箸が足りない」
「紅生姜がついていない」
「飯持ってくるの遅い」
など、あーだこーだ言われる・・・
自分のせいじゃなくても、「すみません。」と謝る。
そのときに、「自分は一体何をしているんだろう・・・」
と毎日思っておった。
築50年以上の畳部屋に先輩と2人暮らし
ボロッボロの寮の畳部屋で、先輩と2人暮らしになる。
もちろん先輩は良い人なんだけど、8畳の2人部屋って昭和かよ!って思ってた。
1年半くらいは寮で暮らすんだけど、これも良い思い出。
1年半の間に、この部屋の先輩と一緒にご飯食べに行ったりもした。
素敵な先輩で良かったなぁ〜と。
先輩になるけど理不尽なことは一切したくない
1年隊員になると、ある程度雑用からは解放される。
ここで、先輩も2パターンになる。
自分たちは、たしかに理不尽な思いをした。
完全に自分は、理不尽な思いをして嫌だったから、他人にはしたくない。
別の部署の後輩には、必ず敬語だった。
振り返ると、最低でも自分といる後輩には、リラックスというか少しでも楽しくいれたらいいと思っていたのであろう。
今と変わらんなぁ。
仕事自体は楽しい

機動隊って、毎日働く場所が変わるんですよね。
- 機動隊の隊舎に出勤
- 制服に着替えたりする
- バスで警備する施設へ向かう
- 警備する
- 施設から機動隊の隊舎に戻る
っていう流れ。
だから、毎日働く場所は変わってた。

- 総理官邸
- 国会
- 自民党本部
- アメリカ大使館
- 中国大使館
- 皇居周辺
などなど。
イレギュラーだと、東京の福生市にある米軍基地周辺の警備もした。
バスの運転や、仕事によってはバイクを乗ることもある。
普段乗らない乗り物を運転するのは、楽しいぜい。
警視庁 第一機動隊の警備指揮用車です。
— めろんぼっくす (@melon_box_) January 14, 2023
平成18年度に国費導入された日野・ブルーリボンⅡ(PJ-KV234L1)で、前後折戸な辺りはバスマニア目線でもエモいですねぇ。 pic.twitter.com/eJmo1dS9ED
毎日景色は変わるし、何回か行ったことある施設だとしても、1ヶ月ぶりだな〜とかあるし。
自分は、刀職人みたいな、同じことをずーっとするのではなくて、
- やること毎日違う
- 作業場所を変更する
- 環境を変える
とかやったほうが、楽しくできるんだろうなと実感した。
機動隊でも色々挑戦した
機動隊でも色々挑戦した。
- 機関拳銃の資格取得
- 大型バス1級取得
- バイクの資格取得
- 4泊5日のバイク講習
- 他県警への1ヶ月原発警備への派遣に参加
このバイク講習も、講習後は地元の美味しいものを食べたりして楽しかったなぁ。


不動産投資スクールで妻と出会う

この時期に、「警察官やってても全然お金貯まらない」って思い始めた。
じゃぁ、なんか副業始めようかなって思った(本当は公務員の副業だめだよん)
色々ネットで探してたら、不動産投資スクールを見つけた。
お、いいじゃんと思い通い始める。
そこで、今の妻と出会う。
(ちなみに妻は不動産投資を続けていて、区分やアパートを持ち家賃収入得ている。人として尊敬する!自分は色々手を出しては辞めてを繰り返しているのに)
私は250万円くらいのボロ戸建てを購入し、DIYに挫折して不動産投資からは身を引く・・・笑
ただ、300万円で売れたから、まぁ諸費用含めトントンで幕を閉じた。


振り返ると
とか、負の感情から色々挑戦していることがわかる。
自分が本気で動くときは、負の感情からなのかもしれない。
副業に挑戦する
不動産投資スクールに通い始めるも、色々と副業に挑戦する。
- せどり
- 動画編集
- ブログ
- ボロ戸建て投資
この副業に挑戦するのは、両学長のYouTubeを見始めたのがきっかけ。
ただ、副業に挑戦しても全部挫折する。
とにかく1円でもいいから、自分で稼ごうと必死だった。
昇任する

機動隊にいる間に、昇任しようってなった。
理由は、1番下の階級だと、1番理不尽なことが経験を多くするからだと思った。
まぁ結局、どんなに偉くなったところで警察組織では理不尽な思いをするんだろうけども。
それで、昇任試験の勉強をしまくった。
刑法、刑事訴訟法、警察官職務執行法とか法律のことだったから、なかなか楽しかった。
- 1次試験〜選択式問題
- 2次試験〜選択式問題、論文
- 3次試験〜面接
面接のときは吐くほど緊張したけどなんとか合格。
機動隊の中で合格した人の中では、私が1番後輩だった。
警察学校の教場メンバーで40人くらいいたけど、たしか4〜5番目くらいに昇任したと思う。
当時28歳とかだったから、まぁまぁ早めに昇任したかなっていう感じ。
多分これも、ずっと巡査でいたのが飽きてたんだろうなぁ。
あと、まだ同じ年齢で巡査部長になっている人が少なかったから、じゃぁやろう!
ていうあまのじゃくな部分も、出たんじゃないかなと
警察学校にまた入る
階級あがるときって、警察学校に入らないといけない。
警察官になるときに入った警察学校の厳しさはない。
巡査部長といって、初級幹部という扱いです。
初級幹部に大切なことを学び、たしか1〜2ヶ月で卒業したはず(コロナ期間中だったため)
違う警察署に配属
巡査部長となって、違う警察署に配属になる。
正直、「また交番かぁ〜」となっていた。
しかも、交番の相勤員は約20歳上の部下。
交番での勤務
110番の取り扱いや、職質・切符を切る日々に戻る。
やりたいことがない
若い部長さんだからってことで、内勤(刑事等の交番、パトカーではない警察)は何をしたいの?
って色々な人から聞かれたけど、正直やりたいものがなかった。
ちょっと興味はあるのもあったけど、内勤の働き方がいやだった。
警察の1番のメリットは、平日に休みがあること。
だって、旅行でも外でも平日が1番空いているじゃない?
でも内勤になったら、土日休み。
土日泊まりになってしまったら、最低でも9連勤。
刑事さんだと30時間以上、ほぼ寝ずに働くなんて当たり前状態。
正直、きついな〜って思っておった。
中学生からなりたかった警察官を辞める
せっかく階級上がったけど、配属して6ヶ月で辞める。
30歳直前になるうえで、「本当にこのまま働いてていいのかな〜?」って毎日自問自答していた。
自分の生き方でも人でも、少しでも違和感を持ったら辞める傾向にあるのだろう。
このときに、デイトラでWeb制作の初級編が終わったくらい。
【独立編】マジで稼げず人生詰む29歳〜31歳

警察官辞めたんだけど、ここから2年くらいは人生詰む。
Web制作(ホームページ制作)に挑戦
警察官のときもちょっとホームページ制作をしていた。
だから、「よし!ホームページ制作するぞ!」って意気込み、大体5ヶ月くらいで
- HTML/CSS/jQuery/PHPをいじって
- WordPressサイトをフルスクラッチで作成
できるようになる。
このときに、とあるWeb制作のコミュニティ2つに入り、一括払いで合計20万くらい払う。
教材とかも合わせると、全部で60万円くらいは払った。
ここでは営業方法とか学べたから、今に活きているのはたしか。
時給300円換算でWeb制作会社に業務委託として入る
Web制作会社に営業したんだけど、1人の社長さんに気に入ってもらえた。
それで、制作会社に業務委託として通ってた。
ただ、時給換算したらリアルに300円程度だった。
とあるWordPressのコーディング案件を6万円で請け負った。
でも、請求書をたまたま見てしまったら80万円台だった。
さすがに80万円はもらえないにしても、
「えぇ〜、6万円・・・」ってなったなぁ。
いや、こんなの全部自分の責任なんだけど笑
作成終わるのに1ヶ月以上かかるし笑
そんな感じで稼げても月に6万円くらいとか。
1日毎日12時間以上は働いた。
他の案件をあわせても1年の売上は100万ちょっとで、「えっ、しんどすぎる」となる。
そしてとある日、コロナにかかってしまい、それと同時にWeb制作への熱はぱったりとなくなってしまった。
Web制作で稼ぐ未来が見えなかった。
しかも、コミュニティで自己投資は大事だ!と学び、Web制作だけでも合計60万円くらいは払った。
教材とかコミュニティとかで。
利益にすると50万円くらいで、どんどん生活防衛資金がなくなっていく。
リゾートバイトと出前館の配達で生き延びる

Web制作を挫折して3ヶ月くらいはニート。
30歳超えニートの爆誕である。
何もしないのことに飽きてきたころに、ずっと東京にいるのも飽きてきた。
三重でプール監視員のリゾートバイト:約1ヶ月半
そこで、どっか場所を変えて働けないかな〜と思い、
「リゾートバイトでもやってみるか!」となり、三重県のとあるテーマパークみたいなところでプールの監視員をする。
プールの監視員自体は、楽しいわけでもなかった。
ただ、住んだこともないところで働くの楽しいじゃん!となる。
休みの日にはバイクを借りて、観光名所を周ったりもした。


軽井沢でゴルフ場管理のリゾートバイト:1ヶ月


ゴルフ場は自然に囲まれて最高だった!
休みの日は周りを散歩したりランニングするんだけど、もう自然いっぱい!
きれいな川も流れてるし、夜の星空はめちゃくちゃキレイだし。
一緒に働くのもほとんどが60歳以上のおじさま達で、優しくしてくれる。
沖縄でゴルフ場の接客リゾートバイト:3ヶ月


石垣島周辺の島で、ゴルフ場の接客のリゾートバイトをした。
ほとんどが島民のリピーターの方たちばかり。
なので、初めて来るお客様にはゴルフ場の説明もするけど、本当数える程度。
休みの日には、海を見に行ったり、ランニングしたり。
ここも夜の星空きれいで最高だった。
出前館の配達も楽しい!
出前館の配達もやった。(ウーバーのように業務委託と一緒)
もちろん、東京に住んでいる家の周辺でやるんだけど、これがなかなかおもしろい。
こうやって振り返ってみると、
という傾向にあるみたい。
このあたりで、警察官のときに入ってて退会したけど、両学長が運営するリベシティにまた入ることとなる。
お世話になった警察の方が・・・
この時期に、警察官時代にお世話になった当時38歳くらい?の方が、亡くなったと聞く。
詳細はこちらにまとめています。

「わいが、警察官を続けなくても生きていけるんだよって示したい!そうしたら、被害者は減る!」
と強く思った。
稼げなくて警察官採用試験を受けた

この時点で「個人事業主で稼ぐ!」と腹がくくれていなかったのであろう
この稼げない時期は、「あっ、自分無理かもしれない」
と思い、警察官採用試験を受けた。
- 警視庁〜1回(1次落ち)
- 神奈川県警〜5回くらい(全部2次の面接落ち)
- 埼玉県警〜1回(2次落ち)
- 大阪府警〜1回(2次落ち)
1次試験の筆記は受かるけど、面接が受からない。
まぁ、警察官を1回辞めたやつを雇わんわな。また辞めるかもしれないし笑
っていうことで、ここでガチで「自分で稼いでいかないとやばい」と気付いた。
また負の感情というか、追い込まれることになる。
Webライター&ブログで何とか生活できるようになる:32歳〜

自分で稼げなくてにっちもさっちもいかなかった。
リゾートバイトをしながら、「もう1回ブログやってみようかな?」と決断する。
遡ること2〜3年ほど前にブログ書いたけど、3記事で終わった。
しかも、見出しとかの概念わからんかったし。
今回は、主に3つのことをやってみた。
ブログ2ヶ月目で22円が入る
なんとブログ開始2ヶ月目で「22円」が入る。
今でも、この22円入った感動を昨日のように覚えている。
だって、ブログを作って自分のブログから買ってくれた人がいるのよ!?
それって本当にすごいこと!

「たったの22円じゃん」って思うかもしれない。
けど、この22円がきっかけで半年後には8万円、1年以内に18万円いった。
2025年の例でいくと、1ヶ月平均で8万円だった。
ちなみに、このぽりぽりすっていうブログだよん。

自分なりになぜ収益発生したのかを考えてみた。
- 1次情報(自分が体験したこと)を、読者さんに価値提供できる
- 同じジャンルで競合がほぼいない
(競合がいたとしても、自分の方が質が高く作れると思った) - クライアントさんに営業メールして、直接のアフィリエイト契約させてもらった
大体キーワードで上位記事を参考にしながら書いたりする。
けど、このブログの場合はほとんど上位記事を参考にしていない。
このブログのコンセプトが
にしている。(全然更新してないし、まだその状態にいたっていないけど。)
これは自分が、
- 警察官採用試験ってどうしたら合格するんかわからん
- 警察官採用試験に合格したけど、警察学校に何持っていくべきかわからん
っていう、自分が困ったから絶対困っている人がいる。
じゃぁその悩み解決をしよう!っていう一心で作成した。
読者さんの意図を汲み取りながら、記事作成するのが得意なのかもしれん。
ブログの成果を武器にWebライターの営業を始める

ブログのアフィリエイト収益を盾に、Webライターに挑戦してみる。
なぜWebライターに挑戦したかというと、「即金性が高い」から。
もちろん最初は全然うまくいかない。
3社くらいから立て続けに契約を打ち切られてしまう。
ただやっていくうちに要領を得てきた。
とある、会社さんのWebライターとして入って、3ヶ月目でディレクターのオファーをいただく。
そこで、初めて自分が執筆するんじゃなくて、チーム運営をしていく側になった。
ライター10人ほどで、私がまとめ役をさせてもらった。
JINのコミュニティでひつじさんに相談する
このブログは、JIN:RというWordPressテーマで作成している。
JIN:Rを購入すると、無料でコミュニティに入れる。
そのコミュニティでたまにひつじさん(JINの開発者)が、イベントをやってくれる。

このイベントが、無料で相談受けますよっていうもの。
相談内容は、ブログでもいいし、人生相談でもなんでもいいっていう。
\ サイト診断するよ /
— ひつじ (@hituji_1234) May 26, 2023
ブログの方向性・稼ぎ方について、ひつじが1人1人回答するイベントやります!
応募条件:
① JIN、JIN:Rユーザー
② BlogCampに参加している
③ コミュニティ内の「イベントルーム」で診断シートを記入して投稿
JINコミュニティ「BlogCamp」で開催する勉強会イベントで、… pic.twitter.com/Cj9vfS5SDa
びっくりすることに、無料なわけ。
ド緊張しながら相談させていただく
結論、2回相談させてもらった!
もうね、初めて相談させてもらうときは、緊張で手を震わせながら相談文を送った。
ざっくりと
- ブログの方向性
- Webライターとして活動してるけどもどう報酬あげていけばいいのか
という相談内容。
そうしたら、ひつじさんが的確に方向性を導いていただいて。
月5万円くらいの報酬だったのが、月30万、40万、50万円になった。
動画は、JIN:Rに入ったら見れるよ笑


ひつじさんの方向性のとおりにしたら、なんとか食べていけるくらいになって。
もうひつじさんには頭が上がらん。
ということで、個人事業主として良い方向性になっていく。
石垣島周辺でパソコン1つで3ヶ月仕事をする


2024年の2〜4月は、リゾートバイトでの石垣島3ヶ月。
2025年2〜4月の3ヶ月間、石垣島周辺でノマドワークをする。
リゾートバイトから1年後に、個人事業主として、自分の稼ぎで3ヶ月ノマドワークできたのは感慨深い。
また、バイクもレンタルして、色々なところをふらふら〜っとしながら働けた。

主に、ゲストハウスをふらふら〜っとした。
もちろんめっちゃ稼いでるわけじゃないから、なるべく安くてコスパ良いところを探す。
そしてなぜそもそも石垣島で過ごしたかというと・・・
「冬の東京は寒いから!」
これにつきる。
「じゃぁ南国行って寒さ回避する?」っていう安直な考えのもとに・・・笑
この時期に簿記3級・FP3級を取る


私はリベシティというコミュニティに入ってる。
そこで、簿記3級とFP3級を取るように言われている。
- 簿記3級は、2年ごしに合格!(途中挫折してたから)
- FP3級は、1ヶ月くらいの勉強で合格!
ちなみに、以下のような資格も取得している。
- 大型免許
- 大型二輪免許
- TOEIC スコア480(留学行く前に受けた)
- MOS(マイクロソフトオフィススペシャリスト)大学生のときに
- スキューバダイビング(泳げないのに取得した)
- 漢検準2級(2級に落ちてもうやってない)
- 柔道二段(警視庁でね)
- 逮捕術二段(これも警視庁でね)

2025年の売上は580万円、利益480万円ほど

2025年の振り返り記事はこちらっ

個人事業主としては、なんとか生きていけるくらいである。
「現状維持は衰退」ってことで、もっと飛躍したい!
とは思いつつ、
「まぁ生きていけてるしなぁ。人間関係で悩むこともないし、比較的場所に縛られてないしなぁ」
という気持ちが正直あった。(全然長い目で見れていないなっ)
全然売上とかめちゃくちゃあるわけじゃないのに。
必ず落ちるときが来る。
会社経営されている方も、先回り先回りで行動している。
ブログも更新止めてるし、でもクライアントワークは楽しいしどうしよう。
自分の発信とかしていくべき?
でも、次何をしていけばいいかわからん。
う〜ん、ブログ頑張ってみる?
と思っていた矢先、ヒトデさんとなかじさんが運営されている、「ABCオンライン」に入る。
ヒトデさんのコーチングを受ける

ヒトデさんのひととなりがわかるブログ記事はこちら↓
ABCオンラインのイベントが2025年の12月に東京であった。
初めてお会いする生ヒトデさんに、死ぬほど緊張。
けど、「ヒトデさんのコーチング、受けさせてください!」とあつかましくその場でお願いするという・・・笑
その経緯もあり、現在ヒトデさんのコーチングを受けさせてもらっている。
コーチングの詳しいことは、Voicyでもお話しされているよん。
→1年ぶりにコーチングのクライアント募集します!【半年間ヒトデが伴走します】

今気づいた。
ヒトデさんにVoicyで質問させてもらった回。

これこそが先出し精神なのか、なるほどって腑に落ちた。
フィリピンに5ヶ月ノマドワーク




2025年の12月〜2026年4月まで、フィリピンでノマドワークをしておる。
なぜかって?
「日本が寒い」から!
それだけかいってね笑
あとは、警察辞めたときは、「フィリピンで暮らしたいな〜」とか思いながら辞めた。
その思いをまだ行動にできてないしと思って、とりあえず
「飛行機のチケット買っちゃったら行くしかない!よし、買うか。」と購入。

このへんのフィリピンでの記事を書いてるので、興味あればぜひ!


一貫して、なにかしら環境を変えながら生きている。
非日常を追い求めてるからなのかな。
Webライター・ディレクターとしての現在の活動

5社さんとお付き合いいただいている。
- C様〜ディレクター、ライター等幅広い
- R様〜公務員記事の作成
- S様〜英語メディア、ライターとして
- SB様〜脱毛記事 ライターさんに書いていただいている
- B様〜副業スクールの批評記事、WP入稿をライター様にお願いしている
ちなみに、記事を書いていただいたり、WPの入稿のお手伝いをいただいているのが2名。
たまたま全員年上のお姉さまがたで、頼りにさせてもらっている。
仕事スタイル
自由度が高く、抽象度が高めの依頼だとめちゃくちゃ楽しい。
例えば
「うちの商品の批判記事が多いから、SEO記事をつくって批判記事を下に追いやって」
という依頼を受けたとする。
そうしたら、
とか、色々考えていくのが楽しいイメージ。
他にも、教育コンテンツを作ってほしいと言っていただいた際には、
- 自分が使ってた教育コンテンツを見ながら、良いところは取り入れよう
- ここに詰まったから、他の人も詰まるに違いない。ちょっと詳しめに解説しよう
- どの順番が見やすいかな?これはこっちで
とか、抽象から具体に落とし込んでいくのが楽しい。
最初からカチッと決まっているのではなく、ある程度の方向性とか、ここは気をつけてほしいとかがあるくらいだと楽しい。
答えがないものを試行錯誤して、答えを出していくというのが楽しいんだろうなっ。
そして少人数で、同じ目的のものを作成していくみたいな。
なぜなら、ガチガチに具体性が決まっているのは、ただの作業に感じてしまうのであろう。
営業が楽しい
対面の営業ではなく、テキストでの営業が楽しい。
なぜなら、成約できたら嬉しいから笑
自分はクラウドワークスをよく使っている。
この営業は全然苦にならない。
だから、営業で取ってきて自分がディレクター的に小さいチーム作って、チームで運営していくのも楽しそうだな。
クライアントと直接お会いしたい病
せっかく繋がったからには、直接お会いしたい。
クライアントさんから会いましょう!
って言ってくださったこともあるけど、9割は自分からお誘いしている。
理由としては
- 仕事の内容も大事だけど、「誰と仕事をするのか?」が大事だから
- クライアントの売上アップに貢献するには、クライアントが大好きじゃないと熱が入らないから
結局は、人間関係を大事にしているということなんだろうな。
人生総まとめとこれから先のこと

こうやって自分史を振り返ってみて、いちばん強く感じたのは「自分って、わりと一貫してるな」ということでした。
自分の通底している性質は、たぶんこんな感じ。
- 興味が湧いたらすぐ飛び込む
(飽きるのも早いけど、ハマると一気に伸びる) - 「寒い」「不快」「理不尽」が苦手。そこから逃げるために動ける
- 環境と人にめちゃくちゃ左右される
(人が良いと爆伸び、空気が悪いと心が死ぬ) - みんなと同じが好きじゃない
(天邪鬼で、自分で選びたい) - 新しい場所・非日常が好き
(景色が変わると元気になる) - 「誰かの役に立ってる感」がないと、急に意味がわからなくなる
- 尊敬する人にくっつく
(犬みたいな忠誠心がある) - 追い込まれたときに本気が出る
(負の感情がエンジンになるタイプ)
あと昔から
はある。
でも、今のハングリー精神は育った環境によって養われたのであろう。
親からの愛情は最大限受けていて大感謝!
自分の中でずっと引っかかってたのって、たぶんこのへんです。
- 「このままの生き方でいいのかな?」っていうモヤモヤ
- 「自分って結局、何者なんだろう」っていう焦り
- 「この先ちゃんと食っていけるのか」っていう不安
- 「自分が出せる価値って何なんだ」っていう迷い
これ、形は変わっても定期的に顔を出してきました。
ただ今は、無くそうとするより「うまく付き合いながら進む」感覚になってきた気がする。
個人事業主は不安定です。未来はわからん。
だからこそ「今を精一杯生きる」って決めてるし、その姿をちゃんと残していきたい。
そして、もし今どこかで
って思ってる人がいたら、せめて
って思える材料になれたら嬉しいです。
今後も、問いながら、迷いながら、でも手を動かして生きていきます。
もしこの自分史を読んで、何か引っかかった人がいたら、ブログでもXでも、気軽に声かけてください。
同じように悩んでる人の気持ちは、たぶんめちゃくちゃわかります。
あと自分は特に、Webライターで人生変わったと言っても過言ではない。
だから、全然Webライターのことでもなんでも、ぽりに相談事があれば気軽に連絡ください!
ってなこことで、まだまだ続く・・・


